ぐろ〜ばるか

日本を意味する「和」について。
ふと考えた。
我々日本人が考える「和」と
外国人が考える「和」にどのような違いがあるか。
茶の湯」とか「和歌」とか「俳句」とか「和服」とか
「歌舞伎」とか「すし」とか「芸者」とか「武士」とか
思い浮かべるものは同じ様なものだろう。
なんだか釈然としない。
西洋人が「和歌」を語る姿をテレビで見て、
漠然と「和」とは本当に日本だろうかと思った。
その西洋人は日本人である僕よりよっぽど和歌について詳しかった。
その他にも僕は「和服」を着たことがないし、
茶の湯」を嗜んだこともないし、
「歌舞伎」を観た事がないし、
「芸者」と遊んだこともない。
和に対する僕と西洋人に何の違いがあろう。

「和」とは本来「日本人」には分からないものであろう。
「歌舞伎」を観て
(う〜ん、日本的だね〜)
と感じるのは本来外国人の観点からである。
しかし今日本人も
「歌舞伎」を観て
(う〜ん、日本的だね〜)
と感じるわけだ。
ということは、僕が漠然と感じた違和感は、
「和」という言葉ではなく
「日本人」そのものに起因するものである。
日本人が外国人と同様の観点から日本を見るようになったということだ。
「和」は日本にしかないものであるから日本を意味する言葉で、
日本人は世界人になったから「和」に気付けるようなった。
これは別に日本に限ったことではない。
フランスは世界を知るからフランス料理がフランス名物だと自覚できるし、
ドイツ人は世界の人々が「ドイツはビールとソーセージ」というから
ドイツの名物を知るのである。
日本に閉じこもれば米を食うのは当たり前だとも思わないくらい当たり前だし、
イタリアしか知らなければパスタを食わない人々の存在も知ることはない。

その国を象徴するものは世界の標識となってしまったから
僕は「和」が「日本」であることに違和感を抱いたのであろう。
標識は世界の全ての人々の共有物であるからである。

新しい「和」を探してみたいものだ。
世界が画一的になるなか、それは難しいことだろうが、
それがもしかしたら100年後に世界で「和」と認識されるかも知れない
と考えたら楽しいと思いませんか。