そりゃ二時間かけりゃ長文にもなるか

山脇先生による現代思想の授業。
「自分ということ」。

いまブログを書きながら頭を整理しているが、これは難しい問題で、
ちゃんと自分が理解しているのかも判然としない。

自己とは何か。
身体が本体か、心が本体か、みたいなことを考える授業だった。
そういう話を聞いていると、どうしたってフムフムと頷いているだけではいられない。
まず「心とは何か」ということを考えてしまう。
心とは脳とは違うのか。
脳が作り出す感情や考えや映像や記憶やそういったものが心だろうか。
身体に例えると身体を動かすと生まれる風が脳でいう心だろうか。
そう考えると風が自己の本体なわけは無いから心も本体ではあるまい。
では自己とは何なのか。脳は身体の一部ではないのか。
しかし脳が意識を作り出しているのだから、
身体は身体と思わされているだけの意識かも知れない。
例え実際には今現在そういうことが無くても科学技術の発達した未来には、
脳と身体が切り離される日が来る。
となると何が自己の本体か。脳と身体なら脳と答えるだろう。
ではなぜ脳と答えるのか。
脳を取られた身体は自分の身体を操れない。
身体を取られても脳は自分の脳を操れるからだ。
さてここまで来たら僕は「自己の本体は脳である」と断言したいぐらいだが、
そうもいかない。
脳が存在することが自己が存在することなのか。
脳が全くその機能を停止していたら、自己は存在しているといえるのか。
誰もが、それは死んでいると答えるだろう。
では死体は自己と認められないのか。
自分が死んでいるのだから自己を認識できるはずが無い。
自己という言葉は自分のことだから、
自分を認識できなくなれば自己は喪失すると考えられる。
ということは脳が自分を認識する部分の機能を失ったとき、
自己は失われるということだ。
ならば自己の本体は脳のなかの自己を認識する部分であるといえよう。
(それが脳のなんというところかは僕は無学なので知りません)
さあ長々と思考に任せて書いていたら自分なりの答えにたどり着いたようだ。

一応たどり着いたのだが、
実は山脇先生が我々に教えて下さっているのはこういうことではないようだ。
山脇先生はこの「現代思想」の授業を通して「人間のつながり」というか
「自己と他者」についての本質から我々に考えさせて、
「今までと違う見方から他者との接し方についてじっくり考えてみなさい」と
おっしゃっているように感じられる。
なんというか、この授業は哲学を通して道徳に結びつくようだ。

見当違いなことを言っていたら御免なさい。