自伝は死因を書けません

僕は幼い頃より歴史というものに強い興味を持って接してきた。
だから多少の自尊心を持って偉そうなことを言えば、
歴史への接し方には段階があるということだ。
まあ別に難しいことを言うつもりは無い。
大抵の人が歴史を現実味の無いものとして捉えているはずだ。
小説だったりテレビ時代劇だったり映画だったりに影響を受けて、
劇中の出来事のように自分からは遠い世界のように感じていることだろう。
遠い世界に感じるのは当たり前で、それらは全て嘘なのだから。
我々は知らない世界を想像で埋めようとするが、
想像は得てして現実を大きく飛躍するものだ。
そして我々の知っているつもりの歴史なるものは実に一面的でしかない。
幕末を例に挙げれば、高杉坂本桂西郷などが牽引した歴史は、
歴史の万分の一どころか兆分の一ですらないのである。
注目される彼ら偉人たちの人生でさえそうである。
生い立ちと二、三の功績しか知られていなくとも、
何やらその時代の全てを作り上げたかのような印象を後世は持つ。
当然それは大きな間違いである。
戦国時代、織田武田上杉などが目立っていた頃、名も知られずに、
しかし確実に生きてきた先祖がいたからこそ幕末の英雄なども生まれたということに気付けば、
自然と歴史の本質も見えてくるだろう。
となれば人間の生き方というものも見えてくるものだ。
自分を凡百だと思う人間の歴史的価値も、実は坂本竜馬らと同等なのである。
偉人に憧れてその人生を追っている段階は、まだ歴史というものを軽く見ているということだ。
歴史は一つの舞台ではなく、ずっと昔から我々に、さらに我々から永世続くものなのである。

とまあ偉そうに書いたが、なぜこんなことを書いたかというと、
漸く『福翁自伝』を読み終わりました!ということです。
えっ?全然関係ないって?
関係ないことはないですよ。
ひとつの本を読んで面白いと感じる人とつまらないと感じる人がいるでしょう。
それは読む人の素地によるものなのです。
僕という人間が『福翁自伝』を読むと上のような事を書くのです。