夜郎

僕も人のことは言えないが、
祖母に「あなたはデリカシーがない」「世間知らずだ」と嘲笑したら、
「うちは千度世間に出とる」と言う。
僕が怪訝な顔をすると、
三年前まで働いていたことを持ち出した。
なるほど、労働という観点からしたら僕なんかより余程立派であったが、
しかし、ここではそういう観点ではなく、
本当に世間が「それほど」のものでしかないと思っているらしい。
「それほど」とはどれほどか。
つまり、家の前の数十メートルの坂を下った所である。
しかも彼女はその職場で、狭い部屋に同僚が一人という環境で働いていた。
僕があきれ顔をすると、それ以前のことを持ち出した。
「配達で高野中を駆け回っとった」。
思わずほほほほほと笑ってしまったら、悔しいのか、
九度山まで」と範囲を広げたけれど、なんとも微笑ましい。
結局年寄りには今当たり前に見える世間が理解できないのだ。
それは彼女の生きた八十数年の間に、
信じがたいぐらいの経済及び生活の場の伸長が起きたことを示している。
彼女は恐らくコンビニにある商品が工場で機械で袋詰めされることも想像できない。
一億人規模の流通というものを感覚でわからない。
彼女の感覚は、近所の饅頭屋が店舗の横のガラス張りの部屋で
一つずつ饅頭を包んでいる、それが限界だ。
この「年寄り」ということを面罵してやりたい感覚は、
どうにも「田舎者」と嘲る感覚に近いものがある。
方言周圏論というのは方言に限らない仕組みだなと思う次第である。