これはナルシシズムではない。生きることに関する研究だ。

何やらT先生に仕事を頼まれましたぞ。
これは学びのチャンスですな。
一体どんなことをするのか、まだ詳しいことはわからないが、
僕を仕込もうという意思が感ぜられたので、ありがたく挑戦してみましょう。
ところで、結構、期待される機会が多いのだが、
これが実は僕の悩みでもある。
いや、これを言うと自慢みたいに聞こえてしまうから、あまり言うべきではないのだが、
期待されるほどの自分を見出せないのである。
自己一致がなされていない。
大変な怠け者・不勉強家と自負しているだけに期待されることが不思議である。
やり始めたことはやり散らかすような人間だ。
だって『舞姫』を読みかけたままであるし、
その他にも途中で止まったままの本が何冊あるか。
こんな根気のない人間に期待をかけるというのは、
それは他者から見て一体どんな風な人間に映っているからなのか。
全く自分というのは興味の尽きない研究対象である。
他者からどう見られているか、というのは研究に必要なデータであるが、
この収集はとても難しいものであることよ。
まさか「僕って、どう?」って聞くわけにいかないもの。


ところで昨日の記事はカウントされませんか?


桜塚やっくんの四十九日に追悼の声が続々
高野山大学にいながら49日の何たるかも知らないが、
こういう49日を意識した声が多くあることを鑑みると、
仏教が日本文化に根強く、そして未だ廃れざることが分かる。
個人的には意外である。
そして宗教儀式に対してドライな自分を再確認。