体罰の成立とは知性の足りない者同士の愛に関する勘違いである

殴る蹴る

やはり教育について書くなら避けては通れないか。
体罰問題。
まず僕の立場を表明しておくと、体罰絶対反対派である。
体罰というのは教える側の都合である。
思ったっ通りに育っていないから殴るのだ。
なぜ思った通りに育たなければならない。

体罰を賛成する者は、反省しているから体罰を受け容れているのだ。
自分に悪いところがあったと気付いた者が適時行われた体罰を容認するのだ。
その者は体罰によって反省したのではない。
既に反省しているのだ。
適時であったために体罰の御蔭であると騙されているに過ぎない。
体罰はこのような詐術の上に成り立っている。

悪いことをした者を殴ってよいか。
悪いことをした者を裁くのは教師の仕事ではない。
教師の仕事は殴ることでは無く、その者の心に善き心を芽生えさせることである。
殴って芽生えることはない。
もし殴られて芽生えたと思っている者がいるなら騙されている。
さっきも言った通り、あなたは既に善き心を持っていたのだ。
では、どうしようもないワルはどうしたらいいか。
殴っても言うことを聞かないどうしようもないワル。
ほら、見事に証明している。殴っても言うことは聞かないのである。
ああ、そういえば大河ドラマ新島襄が素敵なことをしていた。
「自責の杖」というエピソードらしい。
教え子を傷つける前に、まず自らが傷つく覚悟をしてはいかがだろう。
結局体罰をするような指導者は、
そんな覚悟もこもっていない偽物の愛を振りかざすペテン師に過ぎない。