涙が出そう

こういうことを言葉にしてくれる先生のかけがえのなさ。
日々雑記:藤吉 より

そしたら今日で前期の社会学の授業は試験もコミで全部終了です。いま返却したものですが、試験期間に入ってから全部ちゃんと出てきた人の手許には全部で4種類の配布物があると思うので確認して下さい。まずは試験の答案が2種類、ナマの答案用紙、みなさんが試験時間に書いたのとコピーをとった答案用紙があります。前回はナマのを見ながらみなさんに自己採点してもらって、終わってからその答案と採点票を回収しました。まずそれをお返しして、それから今回は、それに足して答案のコピーと、コピーの方を見ながらあたしが採点して記入した採点票をお渡ししています。自分でやった採点票の点とあたしのつけた採点票の点が近ければ、まあまあ自分の力が見えていると考えていいんじゃないかと思います。で、成績ですけども、毎回採点して返却した小テストの点と、今回お返ししたテストの点を最初に言った計算式に入れれば自分の点数が出ますので気になる人は自分でやっといてください。あと、不合格の人には再試験の受験を認めます。単位がほしいという人は教務課の案内に注意しておいてください。

 で、最後なんでちょっと説教くさいことを言って終わりにしたいと思います。勉強ってのはまあ知識も含めて力をつけていくのを目標のひとつにしてますが、じゃあ力って実際のところ何なのかというのを考え始めるとなかなか難しいところがあります。なんでこの話で全部を説明できるわけではないということを確認した上で、それでもまあかなりの場面で応用できるというつもりで聞いて下さい。たとえば、練習の時にはすごくできるのに本番の時にはイマイチだとか、そういう人もいますが、そのへんは考えないで話をものすごく単純化して見ていきます。

 

 たとえば数学とか算数の分野で基本問題、応用問題、発展問題という区別をしてみます。基本問題というのは単純に計算問題としてもよいです。多くの勉強はこういう単純作業が最初にきます。たとえば計算ドリル、はじめはドリル1枚やるのに60分かかっていたのが練習してるうちに40分でできるようになり、もっとやると20分ですむようになるかもしれません。で、応用問題。三角関数なら三角関数微積分なら微積分の計算がある程度できるようになったら、その計算力を使って文章題を解くようなことをやります。さらに発展問題。これは単に三角関数とか微積分とかを使って解くというより、この問題を解くにはどの分野の知識を使うのかというところから考えないといけないような問題です。

 で、こういう単純化にどのくらい意味があるかは考えないで、応用問題を解くには基本問題の1.5倍の時間がかかる、発展問題を解くには応用問題の2倍の時間がかかると乱暴に決めてしまいます。

 そうするとどうなるか。基本問題やるのに60分かかる人は応用問題に90分、発展問題には180分の時間がかかります。基本問題に40分かかる人は応用問題に60分、発展問題に120分かかります。で、基本問題を20分でやっちゃう人は応用問題を30分、発展問題を60分で仕上げます。つまり、基本問題を60分かけてやる人がいる一方で、同じ時間で発展問題を仕上げちゃう人がいるということになります。まあ、乱暴な単純化だということは承知のうえでこう考えておきます。

 で、また別の方面から見ると、基本問題を20分でやる人は60分で発展問題をやっちゃうわけですが、基本問題に60分かかる人はどうかというとそれに180分かかります。といえば3倍だなあと思うわけですが、実際にはどうでしょうか。3時間もかけて仕上げようという人がどのくらいいるでしょうか。他にもいっぱいやんないといけないことがあるなかで、3時間かけてそれだけ仕上げようという気になるかというと、そんな人はそんなにいないような気がします。多くの人は途中で、もしかしたら問題を見た途端に「まあええわ」でやるのをやめてしまうというパターンだと思います。単語力をベースにして英語の読解力なんかもこれと似たような段階を考えられると思います。まあだから、勉強ってのはある部分では力をつけていくという一方で、別の部分では「まあええわ」で次々と自分にふたをしていくということでもあるんだと、そういうふうに考えてもらうといいかなと思います。

 自分にはちんぷんかんぷんな問題や英文を目の前でささーっと解いたり読んだりするような人がいたらひとまず賢いなーと感心するんですが、その賢いというのは、まあ実際に賢い人もいますけども、賢いというよりもいっぱい練習したから速くできるようになっているという場合も多いと見た方がいい。その場でささっと賢くやれるというのは、その時点で賢いというよりも、事前にたくさん練習をしているからに過ぎないという場合も多いということは知っておいていいと思います。

 みなさんはひとまず学校で、あと学校出てからもそれぞれの場で勉強するということを続けたり続けなかったりすると思いますが、その勉強するというのは、無限に力をつけていくというだけでなくて、自分がどのへんで「まあええわ」を言うか決めていくということでもあるということは知っておいてもいいと思います。

 

 なんだか説教くさいと言うより単にイヤミを言ってるだけのような感じになっちゃいますけども、やれと言われてその場でささっとできてしまうというのはそれはそれなりにカッコいいというか、まあできないよりはできた方がいいなあと普通は思うんですが、その場でささっとできるようになるために事前にたくさん練習をしとかないといけないとしたら、そんな練習に時間をとられるくらいだったら他のもっと違うことに時間を使った方がマシ、別に数学なんか速くできるようにならんでもええ、という考え方もアリだと思います。というか、あたしがアリだなんてここでリキまなくても、そういう考え方を実践している人は多いんじゃないかと思います。

 勉強というのがすべての領域で無限に力を伸ばしていくことだとすると、そんなんいくら時間があったって追いつきません。みなさんが勉強してるのは、例えばこの社会学だけでなくって他の授業もたくさん受けてるわけだし、授業以外に部活なんかがある人、資格の勉強をしてる人、あとバイトに追われざるを得ない人、いろいろだと思います。疲れやすくてあんまりたくさん勉強時間をとれないという人もあると思います。そうやって、限られた時間でいろいろやんなきゃいけない中で、これは単位をとれればそれでいいとか、これはちょっと好きだし頑張ろうとか、これはいろいろ事情があって手を抜けないとか、そういう条件に合わせて力の配分を考えること、そうそう、力をつけるというのと手持ちの力をうまく配分するというのと、それを両方考えながらやってってほしいというのがこの話の中心部分です。

 「まあええわ」というのはだから、単に自分を諦めるという後ろ向きのことではなくて、その時々で自分の力の入れ方をちゃんと考えるという、そういう前向きなことでもあるというのを、半分こじつけかもしれないですが、知っといてもらえるとよいかなと思います。……なんか、もっとしゃべりそうなのでこのへんでやめて終わりにしときます。ほな、みなさんよいバカンスを。おつかれさまでした。


「まあええわ」と言っておけばよいことなのに、
「自分は頭が悪いから」という言葉を発してしまう人が結構多い。
そういう人はきっと、幼いころからfjosh524様のような素晴らしい指導者に出会うことなく、
自分で「自分は頭が悪いから」などと言ってしまえるほど自尊心を傷つけられてきたのだと思う。
否定する言葉の中で育つことの何と悲しいことか。
小学生や高校生と接する機会があって、
汚い言葉遣いをしたり、自分を諦めている子たちを見て、
取り巻く環境の大切さを思う。