慚愧

やはり宗教というものは、こうでなくてはならない。

昨日、姉夫婦が遊びに来てくれたのだが、そこで宝くじの話題になったとき、
僕は義兄にこう言った。
「五億五千万当たったら端数の五千万頂戴ね」と。
義兄は「ああ、いいよ」と言ったが、その軽やかな執着の無さはまことに風雅であった。
そんなこだわりの無い返事を受けて、僕は自分の欲深い無心に恥じ入った。
(そうは言いながら、宝くじが本当に当たった時のために、
口約束をしたことをこうしてブログに記述しておく腹黒さよ)

今朝の新聞にこのニュースを見つけて、いよいよ自分が恥ずかしかった。
天下の真言宗だけあって、そのこだわりの無さもスケールが違う。
「布施」だとか「喜捨」だとか、僕にはよくわからなかったが、
なるほど、こうやって見せつけられると無頓着さというのは如何にも清々しい。
六億八千万を喜捨する無欲さと、
五千万を無心すること。
無欲と無心。何だか似たような言葉なのにどうしてこうも違うのか。
僕は無性に自分が恥ずかしくなったのだ。