今日も「かしこそう問題」

今日も「かしこそう」に思われた。

↑こんなことを書いている自分が滑稽だ。
しかし、仕方がない。

僕は正直者であろうと心掛けていて、
分からないことは分からないと答える。
パターンがある。
「(仏教など専門的な難しい話題)榊原さん、どう思います」
「いやぁ、勉強不足でサッパリ分かりません。すみません」
すると、
「榊原さんが勉強不足ってw」
もしくは
「またまたぁww」
という答えが返ってくる。

これを院生や先生方まで言うものだから、
近頃は過大評価ではなく、
むしろ、からかわれているのだろうか、とか、馬鹿にされているのだろうか、
とか本当に悩んでいる。
悩むぐらいなら、評価に追いつくように勉強したらよいのだろうが、
いかんせん仏教密教の教学の煩雑な込み入った専門用語の飛び交うところに、
飛び込む元気もないし、興味も乏しいから頭に入らない。

だから、悩んでいることをこうしてコツコツと周囲に知らしめる必要がある。


今、書いていて気付いた。
別に、かしこそうに思われることは苦になっていない。
正直に分からないと言った後に、
それを謙遜と受け取られることが苦になっている。
謙遜というのは、つまるところ嘘だ。
しかし、その嘘は美徳とされる。
正直も美徳だ。
僕は正直の美しさを好む人間だ。
でも人は僕を謙遜の美しさを持つ人だと思っている。
僕の美しさを他の美しさに取り違えられていることが苦しいのだ。
人というものは自己を認められることに喜びを感じるものである。
僕が僕だと認めていないことを褒めても僕は喜びません。