正義とは何なのか

いじめ調査 日々の授業で正義教えよ
いじめには色々あるようだ。
暴力もあるだろうし、「ネット上での陰湿な悪口」、「無視」などもあるようだ。
この「悪口」や「無視」といういじめ行為が中々興味深い。
大人社会においても、付き合い難い人間に対して距離を置くことがある。
大人になっても職場のやっかいな人間に対して
皆で示し合わせて陰口を言ったり無視することもあろう。
大人に許されていることが、子供に許されないのであろうか。
こんなことを考えていると、子供と大人の境界について考えなくてはならない。
極個人的な考えではそんな境界は無いと思っている。
社会的に勝手に隔てられているだけで、その内面性に大差は無いだろう。
もし、大人と子供を隔てている内面性があると主張する人がいるのなら、
大人になっても出来ないことを子供にさせるのは不可能ということになる。
かと言って、内面性に大差無いという主張も、
出来ない子供が出来ない大人になったということになり、
いじめを無くす方法は見出せない。
大人を直すべきか子供を直すべきか、
鶏と卵の問題だ。

いらだちをぶつけないように関わらないようにする。
これは一つの知恵である。
争いごとを回避しようとするのは一種の正義であろう。
難しい構造を孕んでいる。
関わらないように気をつけているのに関わってくる場合もある。
仕方がない。仲間に入りたいのだ。
嫌われているのに輪に入っていこうとする子は悲しい。
そして被害者が悪いという話が出てくる。KYが悪いと。
正義に基づいた行動のはずが、
いつの間にか転じているということはないだろうか。
自分は悪だと確信して行動する人などいるだろうか。
いじめている人は自分なりの正義を信じて行動している場合はないだろうか。
「いじめ」か「いじり」かということが論じられることもある曖昧な境界線で、
いじめっ子を認定し、それを悪と断じることが正義であろうか。
「いじめ」という言葉が「いじめ」を認定するのは本質的ではない。
「いじめ」は人間関係から生まれるのだ。
教師は「正義」という言葉で曖昧なものを「悪」と断ずる前に、
生徒と人間関係を築かなければならない。


ヘライ先生がレポートの書き方を教えてくれた。
起承転結とかなんとか。
まあ、一般的によく言われることであるが。
僕は、上記のような文章を書くとき、
結論を考えないで書き始める。
思いつくままに書き連ねていって、
よくもまあ一応結ぶことが出来るもんだと自分で感心するのだが、
なるほど、これが随筆か。
するってぇとレポートはそれじゃぁイカンわけだ。
「承で結論を書いておく」っておっしゃてたからなぁ。
書くことが決まってから書かないとダメか。
いつも「書き始めたら何とかなる」という感じで書いているのだが。


午前、歯医者。


胃痛のため、念のため。
午後、診療所。
血液検査とレントゲン。意外に大がかり。
たぶん、何ともないでしょう。
薬を貰う。


日々雑記:藤吉

こりゃバカじゃないのか@47ニュース。と思うが、こういうことやってる人たちはそのくらいことシモジモに言わせておくのは多分ヘーキで承知之介。きっと何か秘められた野望があるんだろう。…英語もできないようなのは非国民!とか言いたいのかな。

敵性語と言われた英語がねえ。
我々はそろそろ漢字・漢語を自粛するべきかな。


さーて、来週の つぎの はいしゃさん はのなおしは?
12/24(ひ)14:45
じゃんけんぽん いしこぶしぽん。うふふふふ。