春風とウンコ

最近ウンコネタが無いからつまらない、
などと言う人がいる。
身内の恥をさらすようだが、我が姉である。
先日会ったときに言っていた。
つまり、姉はウンコネタが好きなのだろう。
つまり、姉は「うんこ」という言葉を聞くとキャッキャッと喜ぶ幼稚園児並みの精神年齢であるということであろう。
僕の語るウンコ話は決して笑わせるためのネタではない。
僕は軽い気持ちでウンコを考えないし語らない。
姉にはもっとウンコをシリアスに考えてもらいたいものだ。
人の妻となった者を悪し様にいうのも、夫たる人に悪いので、そろそろウンコ話を始めよう。

今日の散歩はコートがいらない。
温い風の向きを探れば東から吹いているようだ。
これが東風(こち)というものだなぁ、なんて考えながら歩いているとウンコが落ちていた。
黒いウンコだ。
健康的な固さに見える。
それを見たとき僕は、そのウンコに対し、いつものような腹立たしさを覚えなかった。
そのウンコに憧れた。
(いい、ウンコだなぁ)と憧れた。
そして、僕の頭の中にきゃりーぱみゅぱみゅの『つけまつける』という曲の歌詞が浮かんだ。
「同じ空がどう見えるかは心の角度次第だから」
僕がウンコに悩んでいることを、道端のウンコの捉え方ひとつで再確認させられてしまったよ。
でも、もうわかっているんだ。ウンコに悩むことは恥じゃない。
むしろウンコに悩むことが人生なんだ。
人の一生はウンコとの絶えざる戦いだと思っていたが、戦いなんかじゃない。
敵対していると考えるべきじゃない。
そのものだ!人生こそがウンコだ!
だから人生を占うことはウンコの勢いによる。
これを運勢という。
かの高杉晋作でさえ、ウンコを漏らすことによって死期を悟った。
徳川家康も、ウンコを漏らしたことを人生の教訓とした。
誰もがウンコによって大事なことを教えられるんだ。
だからウンコに悩むことは恥じゃない。
だからもっとウンコをオープンにしなくてはならない。
ウンコと歴史、ウンコと文学、ウンコと宗教、などを考えるとき、
どうしてもウンコは日陰の存在であった気がする。
でもウンコは主役にだってなれるはずだ。真実を覆ってはならない。
いつだってウンコはそこにあったのだから。
密教学科の学生としては大日如来とウンコとの関係についても思索を深めていかなくてはならない。
僕のウンコ論は入我我入とか梵我一如に近いものがある。
ならば大日如来=ウンコの図式について検討する必要がある。

ウンコはシリアスだ。
僕の話をふざけていると捉える人は健康な人である。
世の中にはウンコのことしか考えられないくらいウンコに悩んでいる人もいるのである。