何事にも理由がある。理由がないと思っている者こそ愚かなのである。

「近頃の若者は『おいしい』ことを『ヤバい』と言う。これは日本語の乱れである」
という人の言語能力がヤバい。
「おいしい」ときに「ヤバい」と言う人は増えている。
斯くいう僕も時々言う。
しかしこれはヤバいだろうか。いや、ヤバくない。
誰が「おいしい」ことを「ヤバい」と言ったのか。誰も言っていない。
「おいしい」ときに「ヤバい」と言っているのである。
この違いが判らずに批判する人はヤバい。
「この料理ヤバい」と聞いたとき、食中毒を疑うのは正しい誤解である。
「『おいしい』って意味ッスよ」と説明されて、
「ヤバい」イコール「おいしい」と理解するのがヤバいのである。
若者は、若者のことをはなから侮辱している大人のウザさとヤバさをよく知っている。
はなから侮辱してくる大人が、自分たち以上にヤバい若者であったことをよく知っている。
「最近の若者は」と言う大人は、実は若者に呆れられ馬鹿にされている。
若者は、「おいしい」ときに「ヤバい」と言うその理由を
説明しないとわからない大人の愚かさにうんざりしている。
どうして「ヤバい」が「おいしい」という意味に変化するだろうか。
若者が間違った日本語を使うという頭ごなしの決めつけが頭を固くしているのがわからないのだろうか。
頭が固いから短絡的なのである。言葉の方向性に気付かないのである。
世界の柔軟性を知らないから言葉の厳格な意味にとらわれて真実が見えないのである。
正しい知識を誇って真実を知らないのである。
「ヤバい」が「おいしい」という意味になるわけがない。
「おいしい」から「ヤバい」のである。
「ヤバい」という言葉が「おいしい」に取って代わったのではない。
では何故「おいしい」と「ヤバい」のであろうか。
それは「おいしい」と「はまる」から「ヤバい」のである。
つまり若者は執着に対する戒めとして危機感を表明しているのである。
また食べたくなるから「この料理ヤバい」のである。
彼らの自制心に誰が批判を浴びせかける資格を持つのであろうか。
執着したところで、いつまた食べられるかわからない。
この世はいつだって望み通りにいくものではない。
今食べられるものも、未来には食べられないかもしれない。
「おいしさ」に惹かれて執着を持てば、いつか苦しむことになる。
近頃の若者は、そういう無常観を抱えて生きている。
若者にそんな無常観を抱かせたのは、かつてヤバい若者だったヤバい大人たちである。
「近頃の若者は『おいしい』ことを『ヤバい』という。これは日本語の乱れである」
自らのヤバさを白日の下にさらしている間抜けを嗤え。