云古記

うんこが出ないだのうんこが軟らかいだの。
今日のうんこは良いだの悪いだの。
匂わないだの臭いだの。
といつも我々の関心の中心にはうんこがある。
朝のうんこ一つで一日の心持が決するとあらば、
その影響力はこの世でもっとも重視すべきものであろう。
外食をして下痢をし気絶をすれば外食に怯えるのは当然であり、
年頃の少年が女子大でうんこをして大いなる勇気を手に入れるのもまた然り。
いづれの御時にもうんこをしない者は無く、昔男もうんこをした。
情に棹させば流されるし、うんこに掉させば臭くなる。
授業中にうんこを漏らせばいじめられかねないし、心の傷にもなろう。
こんなにも人に影響を与えるうんこを何故か人は忌避する。うんこはもっと尊いのに。
下品などと表現するのは論外なのである。
ドイツの教育学者ヘルバルトは品性の陶冶を教育の目標に掲げたが、
それはうんこを研究するなということでは無い。
うんこを考えることは「生」に対して真面目に取り組む姿勢なのであるから、
下品どころかむしろ人間としての、いや、生き物としての品性に磨きをかけることなのである。
さて、体の調子も心の調子も人生さえも左右するうんこは、
もはや我々うんこを排泄する生き物にとって本体といっても過言ではない。
我々はうんこに操られているのだ。
我々は常にうんこの機嫌を伺い、うんこに良き様に努めなければならない。
うんこの機嫌を損ねたとき、我々はいつも後悔をする。
そしてその反省をすぐに忘れる愚か者である。
そんな愚か者でもうんこは変わらずに正直に答え、導き続けてくれる。
危険の前兆すら報せてくれる。
うんこは宇宙の真理に通ずる偉大なる愛である。
休日は生活が乱れる。うんこも常とは時と形を変えて現われる。
それは僕の心に影響を与え、日記の内容を決した。

さて筆者はここで筆を置く。
「僕」が生々しいうんこ話を始めかねないからである。
彼の話を総括すれば、
「良き人生とは、良きうんこの積み重ねである」ということである。
先人は尊いもので、これを一言で表している。
「健康第一」と。