こういうのが乱文かな

今日もダライ・ラマ14世の話を聞く。

午前の部「ダライ・ラマ法王と科学者の対話」。
午後の部「高野山大学学長(その他の先生も)、ダライ・ラマ法王と密教を語る」

脳は興味を持っている話をすんなり受け容れてくれる。
それに信頼できる人の言葉を人は受け容れる。
もちろん今日の場合「信頼できる人」は分かれるだろう。
今日の多くの聴衆にとって
「信頼できる人」はダライ・ラマ14世だろうし、
僕にとっては科学者たちである。
「他人の言葉を受け容れる」ということに関して信仰とはもっとも有効である。
それだけに信仰者は視野狭窄になりがちである。
なぜなら信仰者は「被信仰者の言葉を受け容れる」能力は万全になるが、
その言葉を跳ね返す力を多くの場合持たないし、
「その言葉」以外の言葉を受け容れる能力を低下させることがあるからである。
釈迦や空海の背中ばかり見ていたら、
彼らの目指している所がどれくらい先の位置にあるか把握できるものではない
ということである。
少し話がそれてしまった。
科学者たちと14世は仏教と科学から共通点を見出していた。
また科学で未だたどり着けない領域について仏教目線のアプローチを求めたりしていた。
これは実に興味深いことだ。
宗教や哲学は実証能力のないものではあるが、
実証的な科学のために当たり(見当)をつけるのに役立つものである。
全ての学問は繋がっている。
なぜなら各々の学問はこの世を解き明かす一分野であるからである。
だから14世も言っていたが科学と仏教は決して対立するものではないのである。

専門用語の飛び交った午後の部は、
興味も薄く根気が持たずどうでもよいと思ってしまったので
ここに書く気力はない。




子どものころから僕には欲しいものがあった。
全ての知識である。
だから勉強すればよい。
でも怠け者の僕は勉強しない。
その言い訳は、
「いくら勉強して多くの知識を得ても、全ての知識を得ることはできない」
である。
なぜ今僕が高野山大学にいるか。
賢い貴方のお察しのとおりである。
僕の中でもここに来るまでは漠然としていたが、
「仏」とは何かをこの大学で学ぶうちに大変なことに気付いた。
僕は仏に成りたかったらしい。
「神になりたい」と言っていたんですけれどね、
「仏になりたい」のほうが近いのかも。